政経の教師になった理由

 

 20代の頃、英語の教員になろうと思って、英語の教員免許を取った。しかし、最終的には英語ではなく政経の教員になった。なぜ、英語ではなく政経の教員になったか。 理由は二つある。

 第一に、いくら英語を勉強しても、ネイティブにはかなわないということに我慢がならなかったからである。いくら文法的に正しくても、「そう いう言い方はしない」、とか "It sounds strange"などとネイティブからいわれれば、黙って引き下がるしかない。特に英作文にいたっては、この表現でいいのだろう かという不安が常につきまとう。一生の仕事として、こんなのはいやだと思った。

 かつて、韓国のホテルに宿泊したとき、アンケート用紙がおいてあって、それには
貴殿は…
とあった。これを見てぎょっとした。文法的に間違いではないが、アンケート用紙に「貴殿は」などという表現はしない。普通は「あなたは」と 書くはずである。外国語を生業(なりわい)にするということは、しばしばこういう間違いをおかすことを覚悟をしなければならない。こんなのやっておれるか、というのが 英語教師にならなかった最大の理由である。

 それに比べれば、政経の教師はいい。確かに英語教師と同じように、「これで 正しいのだろうか」という疑問はいっぱいある。しかし、傲慢に聞こえるかもしれないが、「私が分からないことは、世界中の学者に聞いても分からな い」(笑)といえるくらい、これまで勉強してきた。だから、英語よりは自信を持って授業ができる。自信を持って授業ができるかどうか。その差は大きい。

 

 第二の理由は、教えることの「哲学」に関するものである。かつて、最初の赴任校で英語の講師をしていたとき、「先生、俺ら英語なんか知らなくても生きていける」と言われ、自分が何のために英語を教えているのか返答に困ったことがあった。

 それに対して、政経を教える哲学ははっきりしている。世の中を良くするためである。世の中を良くするためには、選挙を通して世の中を変えていくしかない。そのためにはすべての人が政治や経済のしくみを理解し、自分の判断で投票できることが必要だ。

 文系も理系もない。頭の良さも関係ない。世の中を良くするための基礎科目として、すべての人に政経をしっかり教えたい。これが政経の教師になった最大の理由である。

 いまでも、英語できちんとコミュニケーションができればいいなあと思うことはある。でも、教員になって32年。社会科の教員を選んで本当に良かったと思う。

 

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